なんかいろいろ その18

ねとらぼの TM NETWORK シングル曲人気ランキング を見た。
ねとらぼはいろいろなバンドとかのアルバム人気とかをランキングとかを発表している。
ところでシングルランキングだったから?
TM NETWORKのシングルランキングには意外な曲が人気あったと感じた。

松本零士が星の海へ旅立ってしまった。
享年85。
生年月日は、石ノ森章太郎とまったく同じだった。松本零士石ノ森章太郎は同時期に手塚治虫の原稿を手伝ったこともある。
漫画家デビューは高校1年生のとき。
ペンネームは 松本あきら だったが、1965年から松本零士・名義も使用しはじめた。
1968年以後は松本零士に一本化した。

個人的は幼い頃に宇宙戦艦ヤマト を熱心に見ていた。
もちろん再放送で。
以前にも記した気がするが、天体望遠鏡を両親にクリスマスだかに買ってもらうはずだったが、つい見つけてしまったヤマトのプラモデルにしてしまった…。
ところで 実写 SpaceBattleship ヤマト、宇宙戦艦ヤマト2199 にはやはり何か足りない気がする。
松本零士の名前だったのではなかったのか。

銀河鉄道999。 
これも以前にも記したが、劇場版 銀河鉄道999 を学校の体育館で見れる!という話だった。
結果的には見られなかったのだけど。
劇場版 銀河鉄道999、劇場版 さよなら銀河鉄道999
りんたろう監督だった。
りんたろう監督の幻魔大戦カムイの剣とか好きだった。
メトロポリス もDVD買ってみたなー。

小学校4年生だった。
サンケイ新聞松本零士の連載がはじまったのは。
サンケイ新聞でコミック 新竹取物語1000年女王は毎日1ページ連載を行われていた。
当時、それをめちゃ楽しみにしていた。
それが。
ある日から我が家では毎日新聞朝日新聞か忘れたけど、サンケイ新聞から代わってしまった。
新聞屋さんのセールスが来て、ひと月かふた月新聞代が無料とかいろいろ、セールスの人に交渉されたらしい。
うちはそういうのでけっこう取る新聞が変わったのだ。
だから、それからは新竹取物語 1000年女王が読めなくなってしまった。
そのうちテレビアニメ 新竹取物語 1000年女王を見てた。
ちなみに 新竹取物語1000年女王 はほぼ1年放送され、その後番組としてはじまったのはパタリロ!のアニメだった。
アニメのパタリロ好きだったなー。
パタリロ、コミックで読んだのは大分あとになってから。
パタリロのコミックって現在は100巻超えていて、まだ連載中。
あの頃はまだ同性愛とかもよくわかってなかった。
のちに大学生の頃に 高河ゆん とかめっちゃ読んでいたのだけど、その頃くらい?
BLとかのジャンルが一般的になったのは。
当時、確か ぱふ を買って高河ゆんのインタビューを読んだ。
同人誌とかの存在も 高河ゆん で知った。
ところで アーシアン のちはやって設定的には男だけど、絵的には女だよね。
パタリロ!のマライヒも。

新竹取物語 1000年女王 はTVアニメ化のあとには劇場アニメ化もされた。
ところで個人的にはコミックの新竹取物語 1000年女王、ラストまでキチンと読んだのはけっこう後だった。
ハタチ過ぎてたもの。
1000年女王、つまり雪野弥生はプロメシュームというのは松本零士が連載中に語ったことがあるらしい。
それが明確になったのは2000年のOVA メーテル・レジェンド において。
銀河鉄道999でのプロメシュームメーテルの母でラスボス。
それが 雪野弥生だったとは…。
エメラルダスもいつのまにかプロメシュームの娘でメーテルと双子になっていたし。

キャプテン・ハーロック
アルカディア号は劇場版 銀河鉄道999 からデザインが変わっていたんだよな。
劇場版 わが青春のアルカディアも記憶に残っている。
というか話の内容として松本零士作品関係では一番好き。
この作品でのハーロックやトチローの生き様がめちゃかっこいい。
ハーロックII世や大山敏郎もかっこいい。
ハーロックI世の声は石原裕次郎だったしな!
あと、ゾルがめちゃいいヤツなんだよ。
わが青春のアルカディア はいまいちヒットせず、その続きの TVアニメ わが青春のアルカディア 無限軌道SSX もいまいち人気が出ず、松本アニメは一旦、終焉をむかえることに。
いやー、内容的には わが青春のアルカディアはヒットすべきだったなー。
TVアニメ わが青春のアルカディア 無限軌道SSX はまあ、残念だったけど。

松本零士は様々な資料を所有者していた。
戦艦大和と武蔵の設計図面も譲り受けたことがあったという。
手塚治虫の初期の漫画本も持っていて、手塚治虫が必要になったとかで貸したことがあったとか。

ムーンライダーズ岡田徹が亡くなった。
享年73。
岡田徹ムーンライダーズの最新アルバム it's the moooonriders の制作においても体調くずしていたとかインタビューで見た気がする。
結果的に最後に参加したアルバムになるのか。
ともかく、ムーンライダーズは2013年に亡くなった かしぶち哲郎 に続いてメンバーを失ったわけだ。 
かしぶち哲郎のあとに 夏秋文尚 が加入したが、岡田徹 のあとの後任とか個人的にはまったく想像できない…。

岡田徹ムーンライダーズの前身バンド はちみつぱい から在籍していた。
2015年の はちみつぱい 再結成にも参加した。
ムーンライダーズはメンバー全員が作曲できるバンドだけど、岡田徹はけっこうムーンライダーズの中心的な曲を作曲者していたと思う。
岡田徹の作曲した曲では さよならは夜明けの夢に、いとこ同士、Kのトランク、9月の海はクラゲの海 、ダイナマイトとクールガイ、帰還~ただいま、黒いシェパード、ハロー マーニャ小母さん あたりが特に好き。
バンド プリンセス・プリンセスの名付け親で、ミニアルバム Kissで犯罪 をプロデュースした。
初期PSY・SではDifferent Viewをプロデュース、PIC-NICからMint-Electricまでは共同プロデュース。
他初期パール兄弟のプロデュースなプロデュース仕事ど他にもたくさん…。
プロデュース仕事が多いことで白井良明と共にムーンライダーズのアルバム A.O.R のプロデュースも。
あとドコモダケのうた とかの作曲とかプレイステーションのCMのサウンドロゴとか。

1981年に岡田徹はローランドのデジタル・シーケンサーMC-4を購入した。
MC-4はMC-8の後継機。
翌1982年のアルバム マニラ・マニエラ にMC-4は全曲で使用され、そのプログラムは岡田徹が担当した。
そもそもDTMでいう「打ち込み」という言葉を初めて使った人物とも言われている。
岡田徹がマニラ・マニエラで使用したシンセサイザーはProphet5。
マニラ・マニエラは当時所属していたレコード会社からは「難解すぎてこれでは売れない」というクレームが入った。
これに対しムーンライダーズは「じゃあ、出さない」として次作 青空百景 の制作に入った。
というわけでアルバム 青空百景 の方が先にリリースされた。
アルバム 青空百景 でももちろんMC-4は使用された。

アルバム マニラ・マニエラは1982年12月にCDのみで発売された。
世界初のCDプレイヤーの発売は1982年10月1日に発売。
その2ヶ月後にマニラ・マニエラはCDのみで発売された。
プレス枚数、200枚あるいは300枚…。
マニラ・マニエラは世界初のCDのみで発売されたアルバムだという。
ムーンライダーズのメンバーさえこのときのマニア・マニエラのCDを持ってないという。
マニア・マニエラはその後、1984年にカセットブックとして発売。
1986年にはアナログとCDで発売された。
カセットブックは装丁からして1982年のCDのジャケットは使用されなかったが、1986年のアナログとCDもジャケットは変更された。
ムーンライダーズのBOXセット 1982-1992 のマニラ・マニエラはオリジナルの図柄が採用された。
ただし、このBOX収録アルバムは何故か通常のCDと開けるところが逆だった。

ああ。

物は壊れる、人は死ぬ 、三つ数えて、眼をつぶれ、てか。