RED HOT CHILLI PEPPERS について

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
つまりレッチリ
レッチリというのは、ここ日本でのみ使われている略称らしい。
ところでレッチリっていつから呼ばれだしたのだろう?

私がレッチリを初めて知ったのは、例の The Abbey Road E.P. のジャケットの写真を当時、毎月買っていた洋楽誌ポップ・ギアで見たときから。
例のジャケットのヤツですよ。
正直、そのジャケットをある意味、感心しながら見たけど、その中身を聴いてみようとは露にも思わなかった。
キワモノバンドなのだろうと思っていた。

1992年になって私が米国に留学したときにはMTVでは Breaking the Girl がガンガンにプレイされていた。
すでに Under the Bridge 、Give It Away 、 Suck My Kiss がヒットした後らしい。
それらも時々MTVでプレイされていた。
アルバム ブラッド・シュガー・セックス・マジック をCDで聴いたのは、米国でできた友人の車に乗せて貰ったとき。
1曲目のThe Power of Equality でカッケーと思った。
友人の車には他にも何人か乗っていて、知らないヤツもいたし、こっちはそんなに満足に英語しゃべれないから黙って乗っていた。
やがて曲が変わり、Breaking the Girl でああ、レッチリのCDか、と気付いたのだ。
今思うとその友人はデペッシュ・モードとかニュー・オーダーが好きと言っていたから英国の音楽のが好きと思っていたのだけど、やはり米国人だと思った。

米国滞在時には、私は最初は学校の寮に住んでいた。
学校の寮ではプールで泳いだり、ロビーでMTVを見たり、寮付属の食堂で食事したり至れり尽くせりな感じだった。
食堂ではすでに作りたての様々なメニューをバイキング方式で食べられた。
さらにハンバーガーとか口頭で頼めばすぐに作って貰えた。
食堂は朝昼晩、それぞれ決まった時間に運営されていたと思う。
土日は休みだった。
土日には友人とどこかに食べに行ったり、マーダー・バーガーというチェーン店のを買って食べたりした。
マーダー・バーガー。
マク⚪ナルドのビッグ・マックよりデカかったはず。
タマネギの輪切りからしてデカかった。
そんな食事ばかりしていたので、私は太ってしまった。
留学して三ヶ月後には私は寮を出て、友人二人とアパートの一室を借りて住むようになる。
寮から出たことで、食堂は使えなくなった。
たまたま一緒に住んだ友人が晩飯を用意してくれるようになった。
食事代として毎回だいたい1ドルを支払っていたら、ほぼ毎日晩飯を食べれた。
私の体重は少しずつ戻っていった。
寮にいた頃の楽しみのひとつはテレビでMTVを見ることだった。
寮を出て私はテレビとビデオを買った。
寝る前とかはヘッドホンステレオでラジオを聴いていた。
当時持っていたヘッドホンステレオは海外でもラジオを聴けて、録音・再生できるやつだった。
確かFMはスイッチひとつで帯域の切り替えが出来た。
適当にMTVを録画したビデオテープとかラジオから録音したカセットテープとかいくつかあって、日本に帰国してからも楽しんだ。
ラジオから録音したものは、ほほロックとかポップス。
中には曲名とか分からないのがあった。
2000年代に入ってからケータイのアプリでようやく判明した曲とかあった。
あー、レッチリとは関係が全くない話を延々と書いてしまった。

アルバム ブラッド・シュガー・セックス・マジック は
The Power of Equality 、 Suck My Kiss 、 Give It Away が好き。
Under the Bridge は何故かあまり好きな曲でない。
あと、リック・ルービンの名前をここで知った。
ブラッド・シュガー・セックス・マジックのメイキングのビデオ Funky Monks も見たなー。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ・スーパー・ベスト!!(ホワット・ヒッツ!?) というEMI時代のベスト盤もリリースされた。
Behind The Sun のビデオが当時、MTVでやたら流れていたのを思い出す。

レッチリはこの年の12月になってサンフランシスコでライブがあると告知されていたから、チケットを購入しようとした。
そしたら、延期だと言われた。
ジョン・フルシアンテが脱退したためだった。
日本公演中に脱退したのだという。
確かこの時期には、ミニストリーのライブのチケットを買ったんだよ。

そして1994年になって後任のギタリストとして、元ジェーンズ・アディクションのデイヴ・ナヴァロがレッチリに加入。
ウッドストック1994での頭の電球が懐かしい。
翌年にはアルバム ワン・ホット・ミニット をリリース。
Warped 、Pea が好き。
Warped はレッチリでたぶん一番好きな曲。
ワン・ホット・ミニット のツアー後にはデイヴ・ナヴァロがあっさりと脱退。
後任にジョン・フルシアンテが再び加入して、1999年にはアルバム カリフォルニケイション をリリースするわけだ。